ラカンを学ぶ

精神分析の理論と実践

科学の諸領域においては,理論と実践とは不可分の相互関係にあります.実践において新たな出来事が見出されれば,それを説明するための理論が立てられます.新たな理論が考案されれば,それを検証するための実践が為されます.そのように,科学においては理論と実践は相互促進的に展開されて行きます.

精神分析においては,しかし,同じようには行きません.なぜなら,精神分析の実践は主体自身の存在にかかわるからであり,しかも,その際,「存在の穴については,それが惹起する不安のゆえに,何も知りたくない」という無知の熱情 ‒ フロィトが「抵抗」と呼んだもの ‒ が働くからです.

その事実に十分に自覚的でない精神分析の理論は,したがって,精神分析の実践を存在の穴から遠ざけてしまうことになります.それが,自我心理学に代表されるフロィト以後の精神分析の諸学派において起きたことです.

ラカンは,精神分析においてかかわる 存在の穴(主体 $ の 穴)に対して 目を閉ざしていた精神分析家たちを目覚めさせるために,1951年から彼のセミネールを開始しました.

ラカンの教え全体は,このことに存します:精神分析の実践を純粋に基礎づけること.

「純粋に」は「非経験論的 かつ 非形而上学的 に」ということです.すなわち,生物学や心理学や社会学などの経験科学に一切もとづかずに,かつ 古代ギリシャに始まる形而上学の先入観を排しつつ,精神分析の実践の根拠づけを可能にする基礎を 精神分析家たちに 与えること.

そのためにラカンが最も根本的なよりどころとしたのは,彼がハィデガーに学んだ存在論です.ただし,それは,通常思念されるような実体論的ないし本質論的な存在論ではありません.我々はそれをこう呼びます:否定存在論 [ l'ontologie apophatique, die apophatische Ontologie ]. なぜなら,言語存在としての存在は,存在欠如 [ manque-à-être ] であるからです.

否定存在論によって基礎づけられてこそ,精神分析は,その本有において,存在の穴(主体$の 穴)の 実践的現象学たり得ることができます.すなわち,精神分析の経験において,存在の穴(主体 $ の 穴)が自身を示現しようとするがままに自己示現してくることが,可能になります.

否定存在論は,人間の実存の構造に関して,形而上学とニヒリズムを越えて 根本的に思考する 試みです.ですから,精神分析に限らず,人間のあらゆる実践にかかわってきます.なかんずく「生きる」という実践,すなわち「存在する」という実践に.否定存在論は,単なる抽象的な哲学理論ではありません.

存在の穴(主体 $ の 穴)の 実践的現象学としての 精神分析は,あくまでひとつの実践です.あなたが自身の実存においてみづから経験するしかない実践です.そして,それ無しに本当の意味で精神分析を学ぶことはできません.

それに対して,ラカンが彼の書とセミネールにおいて我々に教えたことを学ぶということは,如何に彼が精神分析を純粋に基礎づけるために努力し続けたかをたどり直すことに存します.

そして,それは,我々も ハィデガーとラカンにならって 存在の穴(主体 $ の 穴)に関して問い続けるためです.できあいの答えが既に用意されているわけではありません.如何に彼らが問い続けたか,彼らがたどった道を我々もみづから歩み,彼らとともにさらに歩み続けましょう.

もし精神分析を専門としない研究者が精神分析に「理論的」な 関心を持つことに 何らかの意義があるとすれば,それは,もっぱら,ラカンがハイデガーから抽出し得た否定存在論を学ぶことに存します.そして,それによって,やはり,彼らとともに,存在の穴に関して みづから問い続けることができるようになることに存します.